高槻 寒天雑話
2010年03月6日
「高槻 寒天雑話」と題して、学校法人大阪医科大学歴史資料館の公開講座が行われました。当教室に残る資料を参考に、東南アジアの食材であった「aga-agar(アガルアガル)」が中国で「瓊脂(ジュシー)(瓊:赤い美玉、脂:樹液)」となった可能性があるとの指摘にはじまり、その「瓊脂(ジュシー)」が仏教とともに「古々呂布止(こごるもは)(凝藻葉)」として伝来し、「心太(ところてん)」と称されるようになったといわれていることに続いて以下の内容が地元高槻と関連付けて紹介された。山城国伏水(京都)の美濃屋太郎左衛門が心太を凍結乾燥することによって「心太の干物」を発明し、黄檗山万福寺の隠元禅師が「心太の干物」に「寒天」と命名した。隠元禅師は中国(明)から長崎に渡来し、その後万福寺創建まで摂津国嶋上郡富田村(現高槻市)の普門寺に滞在した人である。それから百数十年ほどして、摂津国嶋上郡原村(現高槻市)の宮田半平が美濃屋利左衛門に寒天製造法を習い、自ら凍結乾燥法を改良し、寒天製造が全国に広まる切欠を作った。高槻でのこの寒天製造法改良によって食用としての寒天が世界に広がっていった。寒天の医学応用は、Robert Kochの研究室で、研究補助をしていたAngelina Hesse夫人が夫Walther Hesse医師に寒天を紹介し、寒天を細菌培養平板培地に用いたのが始まりである(ASM News, 58: 425-428, 1992)。この応用はPetri氏の寒天培養皿(ペトリ皿)の発明に助けられ、細菌学の発展、現在の生命科学の発展の基盤を作った。Petri氏と同様の志をもって寒天培養器(吉津式大試験管)の発明に当った吉津(よしづ)度(わたる)(大阪細菌研究所・梅田病院を設立)は大阪府三島郡古曾部(現高槻市)の地に医育機関を創設し、これが現在の大阪医科大学の前身となった。